僕にとっての3.11

東日本大震災、3.11のあの時、僕は電力会社のビルの中にいた。
僕の仕事は電力会社の子会社に常駐して、システムを作ったり、コンテンツを作ったりするものだった。

電力会社の僕がいたフロアにはテレビが沢山置いてあって、映し出された映像に皆が釘付けだった。
僕は状況が良く飲み込めておらず、時折日本各地である洪水のニュースに近いものなのだろうと思っていた。
家が流されるシーンも現実感が無く、外国の話かな?と思ったぐらいだ。

しばらくして、そこが日本である事、そして津波でどうやら大変な事になっている事がわかった。
担当者と仕事の打ち合わせが終わり、帰る時だったと思う。
幹部の人達がぞろぞろとやって来て、個室に居るさらに偉い人の居る部屋へ吸い込まれるように入っていった。
ただならない光景に唖然としたものだ。

ニュースが震災一色となり、関東の状況が大変な事になっているのがやとわかった。
従姉妹が住む千葉のコンビにでは、水が無くなったそうだ。

僕はというと、ニュースで津波の映像が流れ、家が流され、電気が止まり、寒い中取り残される人々の報道に聞き入っていた。
コレは大変な事になった。
とは思いながらも、現地に近い所に居なかった事もあり、まだ自分の事として強く感じ入る事が出来ずに居た。
円は暴落するんじゃないのか?とか、貨幣が価値を持たなくなるのなら、現物で金とか買っとこうかしらとか、賢しい事ばかり考えたものだ。
そこから数ヶ月して、自分の身に大きな変化が起こる事になる。
変化その1  一番最初に起こった変化
先ず、電力関係で働くものの宿命なんだろうけど、過度な節電を要求され、職場の快適度がかなり下がった。
暑くてクーラーでも間に合わず、皆各自にUSB扇風機を持ち込まないと、とてももたない程だった。
それから少し経って、電力を使う冷蔵庫が無くなり、アイスノンを冷やしておいておく事が出来なくなって、とても難儀したのを覚えている。

変化その2  ついに来た大きめの変化
震災から、原子力発電所の危険性が認識されるようになり、九州の原発も止まると、ご多分に漏れず電力会社の株価も凄く下がった。
これは、僕が所属していた大きなグループの時価総額が大幅に減り、自社株を持っていた上位の親会社の人達の資産形成に大きな打撃を与えた。
加えて投機的な影響で燃料費が高騰していたのもあり、僕が所属していた会社にお金を支払ってくれる電力グループの財務状況が急激に悪化した。当然、僕のチームで辞めなきゃならない人達が出て来た。
一番酷かったのは、契約社員の人達だ。契約更新1日前に、契約しない事を言い渡された後輩は、なんとも言えない顔をしてた。
僕は何もしてやれず、残念だった。

その頃僕は、「来年はお前も役職に就かせてやる」「海外研修にニューヨークだぞ♪」と人参をぶら下げられ、そこからさらに数年間頑張ってみた。
けれど、収入の大半を電力関係に依存していた会社に、最早それだけの力は無かった。上層部の認識は甘く、すぐに原発が動いて状況が改善すると思っていたそうだ。遂にはリストラの圧力をかけられる人も出てきた。

僕は、幹部から呼ばれ「お前たちは主力だから解雇は無い。だから頑張ってほしい」と言われた。自分の身が安全だからといって、義理を欠く行為を繰り返す会社側への不信感は、最高潮に達していった。

変化その3  ついに
その後状況は悪化の一途を辿った。苦し紛れに状況を打破するための会議が連日開催されたが、結局、その会議の結論を吸い上げて決断する人間が居らず、機能していなかった。
つまり、無駄な会議や教育をさせられ、時間をひたすら奪われる事が多くなってきた。
次第にバカバカしくなっていた。奴隷でも、箸や石垣などの目に見える成果が出れば、「やりがい」を感じるらしいのだが、「無駄に時間を浪費させられて何も変わらない」というのが僕にはすごくストレスになっていた。ある時あと1年頑張ろう。状況が改善しなければ、辞めよう。
そう決断した。

そして、もう一つ決断した。自分で仕事を作ることを、またやってみようと。
もう他人の無策に振り回されるのはごめんだ。
そう思ったとです。

ともかく、みんなが自分の暮らしを見直す契機になった。

移住ブームが加速し、リノベーションや、DIYが盛んになった。

これは、変革の一つだ。

これが、あの時僕の心の中で起こった出来事です。
他にも流れがあるけれど、長くなるのでまた書きます。

じゃ、またねー! 

 

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